茨城不安定労働組合

誰でも入れるひとりでも入れる労働組合である茨城不安定労働組合のブログです。

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(316)遅刻した奴はおいていけ

七月×日(火)
  先週も入った学校の耐震改修現場に来ている。先週は体育館内放送室に一段三スパンの足場を組み、体育館内一面に組まれた足場を登ってほぼキャットウォークの高さで壁を多少はつった。監督が僕のいる派遣会社からの出向でその指揮下での作業だったが、派遣会社からは足場組み立てしか聞いてなくて、僕はたまたまマスクを持っていたものの相方はなく文句を言っていたが、そりゃそうだろう。小さな会社の中の連絡くらいきちんとしてくれよ。おまけにはつりは後から後から追加が出て、挙げ句仕事が全部終わり道具を足場から下ろして片付け、一時間早く帰れると着替えだしたら「ごめん、もう一ヵ所」と監督が駆け込んで来た。「確認しろよ!」と怒鳴りつけたくなるのをこらえて全くやる気が出ないまま電源ドラムを引っ張って、ほんの少しのはつりを済ませた。定時で上がったのにまるで残業したような気分になった。さすがに気が咎めたりしく帰り際、監督から「残業三十分付けといたから。」と言われた。
  さて今日である。前回「火曜コン打ちで呼ぶから。」と言われていたので、相変わらず会社は必要な道具類を伝えて来ないものの長靴を持って行ったが、またはつりがあると言われた。おいおい、またはつりでまた会社からは何も聞いてないよ。コン打ちは午後、ニ立米と言ったところなので生コン車がきちんと来ればすぐ終わる。体育館のトイレの床を打つので体育館の中を、既に作業用にブルーシートの上にコンパネが敷き詰めてある上にさらにブルーシートを敷く。聞いてないはつりもとっとと済ませて、後はまた足場の組み立てだと言う。この前の放送室に追加だと。足場に手を着けると中途半端しか終わらないので床の養生とはつりだけ済ませて午前は少し早く昼に入った。
  午後、予定通り生コン車が来たのでコン打ちを初めた。このコン打ち、これまで僕が派遣会社としてやった中でも一、二を争うラクさだった。外構屋のY社のコン打ちは派遣会社と比較にならないきついものばかりだったので、これまで経験した中で最もラクな部類と言うことだ。ポンプ車が来ているのでネコ押しもなければ大した広さじゃないので面倒なバイブのコードさばきもない。バイブのスイッチは電気屋が手元でやってくれ、均しは左官屋がやってくれる。僕たちはバイブを握っているだけでいいのだ。短かった土工時代のコン打ちは型枠にバイブを突っ込んでたから奥深くまでバイブを入れると鉄筋や枠に引っ掛かって抜けなくなったが、それもなし。僕たちと書いたが、バイブは二本、派遣会社の二人が持っていたものの、実際二本使うような広さではなく一本で充分、途中から相方はバイブを手離し片付けを始めている。
  コン打ちの片付けも終わり、三時前から足場の増築に移った。今日一番面倒だったのはこれで、時間がないので監督と三人で汗だくになりながらどうにか形を作った。細かい敷板での隙間埋めなんかは監督が後日一人で出来ると言うので時間目一杯までやって作業終了である。
 今朝は最寄駅で待ち合わせをしていた。八時半から作業なので八時過ぎに現場に入ればよく、待ち合わせは七時五十分にした。駅前のベンチで本を読んでいると電話がかかって来た。この時間の電話はどう転んでも悪い知らせだ。待ち合わせた相手から、集合時間に間に合わないと言って来た。先に行ってくれ、タクシーで向かうから、と。タクシー使うような距離じゃないよ、と返し、結局待ち合わせ場所に到着するまで待つことにした。が、予想される到着時刻を過ぎても連絡はない。こういう時は本を読んでもちっとも頭に入らなかったりする。八時十五分になり、いくらなんでも間に合わないと歩き出しながら着信のあった番号に電話すると、タクシーで現場に着いたと言う。「加藤さん電話に出ないんだもん。」だと。憤然としながら携帯を確認するも着信の跡はない。まあ、携帯は当てにらないさ。現場に入ったら朝礼が始まっていて、監督に手で「入って来るな」と合図されてしまった。何故こんなことに?
  前世紀末に今とは別の派遣会社にいた時の会話を思い出す。僕より十ほど上、当時三十代終わりだったベテランの日雇派遣(この言葉自体がまだない頃だ)との会話だ。彼は待ち合わせに遅れた相手を五分以上待たないと言っていた。「自分まで遅れちゃうからね。」あなたの言う通りでしたよ、Oさん!Oさんと僕は、新規開拓した会社に初めて送りこんで大丈夫な作業員としてコンビを組んで現場に送られたことが何度かあった。が、僕の場合その評価は酒で潰れてしまい、僕はその会社を追い出された。その後一度だけOさんとは朝に駅でばったり出会したことがある。それからでも干支が一廻りしている。Oさん、今どこで何をしているんですか?