日雇派遣日記 賃金奴隷な日々(日雇) (582)自由人?誰が?
加藤匡通
十月××日(金)
たまに設備の仕事があると連絡が来る。前に書いたようにV社の社長の言葉は真に受けられなくなったが、他の職人からも話が来ることがある。ある程度長く続くのなら日当の高い設備の仕事の方がいい。しかし一年前のように細切れならむしろ行かない方がましだ。
この前も電話があった。行きたいのはやまやまだが、例えば先月の弾圧時などのように、突然穴を空けたりして迷惑をかけてもすぐに戻れるのはありがたいし、他にもいろいろと恩を感じていたりはする。それなりに頼られてもいる。義理を感じてしまっている訳だ。どうしたもんかな。
もっとも、すぐに戻れたのは建築現場だから、ではある。他人の嫌がる肉体労働、履歴書なんかなしで現場には入れるし、経歴も気にしない。聞いて回ったことはないが、大きな現場なら服役経験者は何人もいるだろう。紋々背負ってる職人は珍しくもなんともない。建築現場は前科者に寛容なのだ。言われたことを真面目にやっていれば余程のことがない限りどうにかいつくことは出来る、はずなんだがその余程のことをする者がまたそれなりにいたりもする。この間も、いややめておこう。
同世代には会社の中である程度出世していて、早目の定年になる者も出てくる。資産も家族もあるだろうが、彼らには彼らの苦労があるだろうから羨ましいとは思わない。彼らからは、家族も作らず定職に就いているかも定かでなく映画と本に明け暮れているようにしか見えない僕はさぞ自由人に見えているに違いない。実際言われたこともある。だが本人は自分のことを自由人だなぞとはこれっぽっちも思っていない。選んだ結果ではあるものの、いろんなものにがんじ絡めだよ。
闇バイトとやらが話題だ。そんなうまい話がある訳ないだろ、と引っ掛かって人生を棒に振る破目に陥った人たちを嗤う、あるいは説教する人は多い。そんな話に引っ掛かるほど追い詰められている人が大勢いることの異常さはあまり問題とされない。SNSの普及による問題の拡大もあるのだろうが、基本的にはまともに働いても食えない人が増えている状態を放置した結果だろう。貧すれば鈍する。追い詰められての選択は限られた選択肢しかなくなる。それは選択の自由と言えるものではない。
選挙はそうしたことの責任を問う機会のはずだが、こと国政選挙に関しては機能しているのを見たことはない。今回も投票には行くけど、期待なんかしてない。
起訴されたら見損ねると思っていたが、幸い『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を見れた。前作『ジョーカー』は選択肢がどんどんなくなっていく過程を描いていて見ていて追い詰められる気がしたが、今回は選択肢がなくなっていたことを証明しようとして失敗する話だった。見終わって『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』並みに愕然としたが、考えてみればミュージカルってそういうジャンルでもあったな(以下、ミュージカルについて脱線したくなるがこらえる。)。
見ていて留置場を思い出し、ちょっときつかった。あんなむき出しの暴力はなかったが、暴力に支えられて自由を奪う場所であることに変わりはない。
とか思ってたら、設備の職人から電話が来た。V社はこれまで僕には二週に一度給料を払っていたが、社長が倒れて仕事は激減、ついに貯えがなくなったので、十二月の給料は一月末でないと払えない、と。とてもじゃないがそれじゃ無理だ。首が回らない。もうV社の仕事も出来ないか。職人には「じゃあ元気でね。」と別れの挨拶までされてしまったよ。バブルは完全に弾けましたと。短けぇ夢だったな。
こんな奴のどこが自由人だよ、なあ?