茨城不安定労働組合

誰でも入れるひとりでも入れる労働組合である茨城不安定労働組合のブログです。

日雇い派遣日記(89)賃金奴隷とは誰のことか

三月××日(金)

                加藤匡通

 賃労働なんかしている場合か、という思いは消え去るはずもなく、しかし当たり前のように毎日現場に向かっている。
 ゼネコン現場は地震で、少なくとも翌日までは止まったそうだ。安全確認しなきゃならないし、大きなハコモノだと余震で鉄骨崩れたりするだろうしな。社内規定で決まってもいるだろう。
 僕が行っている現場はその日も翌日も動いていた。もっとも僕は帰宅難民化して家に着いたのは翌日昼だったから当然仕事には出ていないが、それはどうでもいい話。ほとんどの職人は車で来るので大渋滞の中、無理して来ていたらしい。「いっそ、非常事態宣言でもして強制的に仕事休みにしてくれればいいのに」とぼやく者もいた。国家による強権発動なので僕は賛同しないが、この規模だと元請けはそうとでもしない限り納期を延ばしたりしないだろうから下請けには無理が押し付けられていく。積みたてほやほやの新鮮なブロックが地震で崩れたなんて話も聞いたが、もちろんそれに対する保証はない。揺れたその日もみんな家族の心配をしながら五時過ぎまで仕事をしていた。
 自分を賃金奴隷だと思うのはこんな時だ。もちろん本当に奴隷であれば賃金は出ないから、賃金奴隷とは何かの喩えである。と書いてからこの国には奴隷的労働がまだあったなと思い出したが今回は触れない(刑務所での労働と人身売買による外国人の風俗店での労働)。生きていくためには金が必要で、資産も何もない者は自身の身体と時間を切り売りして金を稼ぐしかない。それを望まない者は世捨て人として社会との関わりを断つか、あるいは社会の側から排除される。つまり、賃労働とは社会の側からの脅迫に近いものであって、自身の自由意志で行うものではない。自由意志で行っていると思わされているだけだ。しかし一度洗脳されてしまえばそこに自らの意志との区別はなくなる。僕たちは社会との関係を維持するため、そして賃金を得るために働くのだ。働く際の条件を決めるのは圧倒的に雇用者側で、とても対等な条件での契約と言えるような代物ではない。そうして得る賃金は生活をどうにか支えられるレベルでしかない。賃労働が全般にそこまで悲惨なものではないと言われるかもしれない。しかし賃労働の下層と、この国にも自身が働かなくとも生きていける人たちが層として存在することを考え合わせると、生きていくために自分自身の生を切り売りしている僕は賃金奴隷だ、と強く思う。

蛇足。
 自身が属する階級を何と考えるかは本人の主観の問題で、それが正しいとは限らない。七十年代以降のこの国ではかなり多くの人が自身の階級を誤って認識していると思われる。こんなことを書いている僕自身、二十年前はこの国には階級問題なんてないと思っていた訳だし。
 大変な思いをして、それでも仕事に行く人にはそれぞれ事情があるだろう。それをどうこう言うつもりはない。ボランティアなんてのはやりたい人がやれる時にやればいいので、これも他人様がとやかく言うことではない。
 僕が身悶えているのはいろんなこと(些細なこと?)にとらわれて身動き出来ない僕自身の不甲斐なさについてだ。