茨城不安定労働組合

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賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(405)『マルクス・エンゲルス』

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(405)『マルクス・エンゲルス
加藤匡通
六月××日(火)
岩波ホールと言う老舗のミニシアターがある。なんとなくお高くとまってる感じがして、だからなのか気になる映画を上映していてもあまり足を運んでおらず、数えてみたらこの三十年で十本見ていなくて、自分でもびっくりした。最近だと『キリマンジャロの雪』を見てるけどこれだって五年前だ。『少女は自転車に乗って』はつくばで見たんじゃなかったかな。
三十年前に『ローザ・ルクセンブルク』を上映していれば『マルクス・エンゲルス』を上映するのも自然な流れなのか?『ローザ・ルクセンブルク』は見ていない。もう大学生だったが当時は見る気もなかった。今回は初めから見るつもりで、当分やってると思っていたら次の公開日が目の前だと気付き、慌てて見に行った。現場は残業しかねない雰囲気で、五時前のニ十分を苛々しながら作業したが、どうにか五時に終わった。今日を逃すと見損ねるかもしれなかったので助かった。この現場、五時前から突然作業が始まって残業とかあるんだよ。勘弁して欲しい。
映画はマルクスエンゲルスの出会いから『共産党宣言』を書くまで、二十代の二人を描いている。先行する運動への呵責なき批判者と言えば聞こえはいいが、先達への敬意を欠く傲慢な若者に見えて仕方なかったのは、僕がとうに若者ではなくなっているからだろうか。義人同盟(字幕では正義者同盟)を共産主義者同盟に改組する場面など組織乗っ取りにしか見えない。つまり二人は嫌な奴らと見えかねない描き方をされているのだ。もとからそんなもんだろうと思っていたのが、マルクスエンゲルスを美化している人たちには衝撃に違いない。もっとも、マルクスたちから批判されている同時代の革命家たちも、批判されて当然と言う描き方になっている。我が同志バクーニンはお調子者とされているし、オットー・バウアーを初めとする青年ヘーゲル派は現実に対して腰の引けた批判しかしない連中と描かれている。マルクスエンゲルスの側から描けばそうなるだろうし、そう描かなければ二人は本当に嫌な奴らで終わってしまう。それでもアーノルド・ルーゲだのヴァイトリングだの我が同志シュティルナープルードンだのが出ているのを見るのは楽しい。僕はマルクスに批判されていることでしか知られていない彼らを見に行ったのだ。
マルクスと同時代の革命家たちは一般的にはマルクスの著作を通じてしか知られていない。バクーニンプルードンは翻訳の多い方だが、それでもマルクスの『哲学の貧困』で批判されていたことで有名なプルードンの『貧困の哲学』は数年前にようやく翻訳が出たレベルだ。多くの人がマルクスを通じてプルードンを批判していたはずだが、実は誰も批判されていた当の書籍を読んでいなかったのだ。オットー・バウアーやマックス・シュティルナーと言ったヘーゲル左派はなぜか全集の出ているフォイエルバッハを例外としてそれぞれ一、二冊しか翻訳はないし、ヴァイトリングにいたってはまとまった翻訳はなかったと思う。文庫本でマルクスを読むだけで彼らの名前は当たり前のように出てくる。なのにどうしてこんなに関心を持たれないのかわからない。
パンフに彼らを演じた俳優について書いてあるだろうと思ったら、ブルードンとヴァイトリングしか載っていなかった。スタッフ、キャストの名前もろくにない。パンフに載っている文章はどれも彼らを批判すべき、二人が乗り越える対象としているけど、出演者の名前さえ満足に載っていないとはそもそもパンフとして駄目じゃん。岩波ホールのパンフって前からこんなんだっけ?前は字幕採録まであったと思うんだけど。