茨城不安定労働組合

誰でも入れるひとりでも入れる労働組合である茨城不安定労働組合のブログです。

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(427)龍ヶ崎古書モールも閉店

 賃金奴隷な日々  日雇派遣日記(常雇?)(427)龍ヶ崎古書モールも閉店
加藤匡通
一月××日(土)
    置きビラでしばらく振りに覗いた本屋がことごとく閉店準備をしているように見えて暗い気分になった。文庫本の棚ががら空きになり、ほんの数冊が表紙を正面にして置いてある。どの店も行く度に少しずつ本は減っていたが、今回はがくんと減っている。漫画すら申し訳程度になっている店まであって、次に置きビラに来た時にこの店はまだやっていてくれるんだろうかと思ってしまった。中にはフーコーが何冊も並んでいる店もあって、かつてはこういう本も売れたのだなと切なくなる。もう少し金があればここでフーコーを買って行くのに、と来る度に思っていたが、もう次はないかもしれない。
    そうした店は個人経営で、そもそもビラを置いてくれるような店は個人経営の店ばかりだ。地域展開しているワンダーグーや郊外型の店舗はビラをまず置かないし、ショッピングモール内や駅ビル内の店舗も置いてくれない。
    とどめは龍ヶ崎だった。龍ヶ崎の古書モールにビラを持って行ったら二月閉店、半額セールと貼り紙があった。リブラと言う寂れたショッピングセンターの二階催事場で常設の古書市が開かれているのだ。茨城と千葉から何軒出店しているのか、広い空間に古本が林立する様は圧巻で初めて見た時は腰を抜かした。潮来にも規模は小さいものの同様の常設古本市があって、出ている店も被っているが、あっちはまだ大丈夫なんだろうな?それにしても、ああ、あの混沌がなくなるだなんて!

 

 

国体なんかいらない   天皇代替わりと国民体育大会を問う

組合員加藤からの投稿です。


国体なんかいらない   天皇代替わりと国民体育大会を問う
 次の天皇の即位までもう残り数ヶ月。十連休だ、「平成最後の〜」だと世間は浮かれている。時給で働く人には十連休なんて災害でしかないし、役所や病院が十日休むのも災害に近い。一連の代替わり儀式には百六十六億円かかると言う。社会保障を削って、消費税が上がって、だ。財源が違う?でも元々は税金だよね?

 二十世紀の初め、世界の人口の九十パーセントは君主制の下で生きていたが、六十を超える国で君主制は廃止され、現在残っているのは約三十か国、世界人口の十パーセント以下に減っているという。二十一世紀に入ってからもアフガニスタン・イスラム首長国とネパールで廃止されている。世界的に君主制基本的人権に反するものとして廃止されつつある。

 天皇の行うことは憲法で規定されている国事行為の他は全てが私的行為、個人的な事柄のはずだが、実際には憲法に規定されていない公的行為を数多く行っている。例えば皇室外交や園遊会であり、国民体育大会全国植樹祭、全国海づくり大会の三つはそれらの中でも全国を巡回して行われる三大行事といわれている。

 十九年の九月から十月にかけて茨城に国民体育大会がやって来る。そのことの意味を考えたい。


2019年2月10日(日)14時から 

吾妻交流センター大会議室(つくば市吾妻1-10-1つくばセンタービル4F つくばエクスプレスつくば駅A3出口より徒歩3分)

お話 井上森さん(元・やってる場合か!『スポーツ祭東京』実行委員会)

イノリさん(もう、やめよう国体!埼玉の会)

参加費 500円

主催 戦時下の現在を考える講座 連絡先 090-8441-1457(加藤)

mail: under_the_war_regime@yahoo.co.jp

blog: http://inwartimeinibaraki.hatenablog.com

twitter: https://twitter.com/against_war



国体なんかいらない。
 国体=天皇制なんかいらない。例えば憲法基本的人権主権在民といった原則は天皇がいるだけで破綻する。生まれた時からエラい人がいる社会は平等な社会ではないし、以前は唯一人の主権者だった存在が象徴と言われては、私たちは本当に主権者なのかと疑いたくもなる。
 いや、憲法なんて持ち出さなくても、私たちは臣民でも奴隷でもない。たかだか百五十年前に当時の政府が作った制度を伝統だと言われても困る。そんな伝統はインチキだし、私たちを抑え込み従わせようとする伝統なんかいらない。それに、生まれながらにエライ人がいるとは生まれながらにエラくない人がいるということで、それはとても差別的な考え方じゃないか?
 私たちは天皇制なんかいらない。
 
国体なんかいらない。
 国体=国民体育大会なんかいらない。
 国民体育大会は戦時中の総力戦を戦える「国民の体力」を増進させる政策に端を発し、敗戦後スポーツを通じてナショナリズムを鼓舞するために計画された。現在の中心的な主催者日本体育協会も前身は戦時中の政策を担っていた。
 開催県が毎年優勝する不可思議なスポーツ大会として知られるが、全国規模の催しでありながら開催県の一部だけが盛り上げようとしている催しであり、学校の生徒や教員、自治体職員への過度の負担と、施設整備などで膨れ上がった開催費用から無用論や廃止論も語られているイベントである。既に子どもたちは学校で、数年前から国民体育大会のために授業を使って練習を行っている。七十四年の茨城国体では汚職も発覚した。
 さらに、法的根拠のない天皇の公的行為として、大会での天皇の出席、あいさつが恒例となっている。しかし、これまた憲法での規定もないのに国家元首扱いをされるような人物が法的根拠のないことを職務として行っていいはずがない。それに、そもそもスポーツは天皇や政治家に見せるために行うものではないだろう。
 私たちは国民体育大会なんかいらない。

四月、六月、八月と国民体育大会についての学習会を行い、九月から十月にかけて行われる「いきいき茨城ゆめ国体」期間中にいくつかの催しを行います。乞御期待!
この問題に関心のある方、共に考え、動いてみたい方は連絡を!


ロイヤルボックスに/すわっている/あなたは/僕たちを見て/何を思っている
この十四分間のために/僕たちは/旅行を失い/授業を奪われ/クラブを乱され/貧血で倒れた
僕たちには/あなたの拍手もいらない/微笑みもいらない
これを行なう理由/それが欲しい/僕たちにわかる答えが欲しい
あなたがそこにすわる一ト月前/雨の降る土曜の午後/集会が開かれ/激論がかわされ/校長が泣いた
あなたはそれを知らない/知らないあなたは/僕たちを見て何を思う
(1967年埼玉国体マスゲームに出場させられた浦和市内の高校二年生の詩)

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(426)インフルエンザより横田順彌の死の方がダメージ

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(426)インフルエンザより横田順彌の死の方がダメージ
加藤匡通
一月××日(木)
 只今絶賛インフルエンザ発症中、従って今週いっぱい賃労働から解放されております。
 これで今月の皆勤手当もパー、会議も飛ばし、支払い計画も崩壊。『特撮のDNA』も行けないかなあ。それでも賃労働からは解放されているのだ。「労働概念の再検討」行きたかったなあ。
 熱は下がったから読まなきゃならない本読むか。
 とか書いてたら横田順彌の訃報に接し愕然。古本屋に通う楽しさはヨコジュンから教わったのに!

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(425)「平成三十三年」

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(425)「平成三十三年」
加藤匡通
一月××日(土)
 車検切れ間近の車をどうしようかと悩んでいた。ネットオークションで十万以下で入手しようと思っていたが、金の用意が出来ず、どうにか用意してオークションを始めたのは車検一ヶ月前を切っていた。安く済みそうな車に目星をつけて、オークションの他に金がかからないかと電話で問い合わせると「この車種がそんな安く手に入る訳ないだろ。」とやんわり言われて当惑。自動車に関心ないから、いい車とか言われてもわかんないんだけど。どうにかオークションに参加するもどんどん値がつり上がってしまい早々に脱落した。
 街を走っていて十万を割る車があるかと気にしてもいたが、何故か切羽詰まると見かけない。八万と表示されていた車を見かけて、電話したが「全部込みだと十三万。」と言われた。もっと安い車はないかと聞くと二年車検付きだと十二万が限界と言われ、もっと安いのはとまた聞いたら鼻で笑われた。
 そんなこんながあって結局最安値で車検を通すことに切り替え、どうにか今乗っている車を十万で通す店を見つけた。やはり僕の年収で自動車を持つのは間違いだ。軽自動車税上げんなよ。
  帰って来た自動車の車検証を見て呆れた。期限が「平成三十三年」になっている。そうか、陸運局天皇代替わりを認めない立場なのか。でも、「平成三十三年」は間違いなく来ないんだけど、ってことは今回の車検は半永久的に有効ってことか!素晴らしいぞ、陸運局

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(424)訂正テレンス・スタンプ→テレンス・フィッシャー

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(424)訂正テレンス・スタンプ→テレンス・フィッシャー
加藤匡通
一月××日(金)
 前回の記述に間違いがありました。一九五七年イギリス、ハマープロ製作の『フランケンシュタインの逆襲』の監督はテレンス・スタンプではなくテレンス・フィッシャーです!小学生で覚えたことをこんなところ間違えるとは恥ずかしい。
 ちなみにクリストファー・リーは最近まで存命で映画に出まくってたので同時代に新作を劇場で見ているけど、ピーター・カッシングをリアルタイムで見たのは最初の『スター・ウォーズ』だけ、劇場で見た本数も五本くらい。小学生の頃にテレビで散々見てるけど、やっぱり残念。
 テレンス・スタンプ岸田森吹替の『コレクター』を見たいと思い続けているけど、テレビでは沢田研二版しか放送されない。

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(423)『メアリーの総て』

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(423)『メアリーの総て』
加藤匡通
十二月××日(木)
 年内は二十九日まで出ることになった。五月末からずっと入っている現場がその日まであるのだ。年末、特に用事もなく、可能な限り出たかったので願ったりである。去年はたまたま入っていた現場が三十日まであって、喜んで出た。その日は大変珍しいことにそこの業者の忘年会にまで声をかけられたが、母か風邪で寝込んでいたので行かなかった。
  現場では最近は養生がメインになっている。天井に取り付けられた空調器機の中に埃が入らないようにする養生で、ごく簡単なものだ。ただ、養生した後から後から、その隣だのに器機が付いていくのでイタチごっこ、まるで終わらない。
 帰ってからつくばのUSシネマで『メアリーの総て』を見た。メアリー・ゴドウィンが既婚者の詩人バーシー・シェリーと駆け落ちして十八歳で『フランケンシュタイン』を書き、出版するまでの話である。当然バイロンの別荘での有名な怪奇談義は出てくる。
 この部分だけでケン・ラッセルは『ゴシック』を一本撮っていて、これは大学の時に封切り館の今は亡き、当時まだミニシアターの第一線だったシネマスクエアとうきゅうで見ている。同時期にもう一本、『幻の城』と言う映画が同じ舞台を描いているがこっちは見ていない。こちらの封切り館は俳優座シネマテンだったと思うが、俳優座そのものは当然まだあるものの映画上映はやめている。シネマテンで見た中で印象深いのはなんと言っても『アナザー・カントリー』だが、これ以上の脱線は止めておく。
 『メアリーの総て』が力を入れて描いているのはディオダディ荘での怪奇談義ではない。映画はメアリーと義妹を通して十八世紀初頭のイギリスでの女性の地位を、彼女たちがどう扱われ、それに対してどう立ち向かい傷ついたのかを描く。自由恋愛なんて男の欲望の言い訳でしかないのは、この何年かで思い知らされていたが、この映画でもまた見せつけられた。書き上げた作品も夫が書いたのではないかと疑われ、匿名で出版せざる得ない。映画はそうした女性の不当な扱いを昔話として描いていない。パンフレットを読んで初めて気づいたが、主なスタッフも女性で、監督は『少女は自転車に乗って』のハイファ・アル・マンスールだった。つまり監督はサウジアラビアの人だ。
 この映画にフランケンシュタインの怪物は腕しか出てこない。眼目はそこにはない訳だ。僕にとって八十年代は一大リバイバルブームの時代で、ユニバーサルの、ジェームス・ホエールのジャック・ピアースの、そしてもちろんボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』と『フランケンシュタインの花嫁』は高校生で見ている。それ以来同時代のフランケンシュタイン物はかなり見ているし、ハマーの、テレンス・スタンプピーター・カッシングクリストファー・リーの『フランケンシュタインの逆襲』も劇場で見ている。『フランケンシュタイン対バラゴン』『サンダ対ガイラ』も当然見ている。原作は高校生の頃に創元推理文庫で読んだ。書簡体小説を読んだのは初めてだった。
  しかし今、関心はそこからややずれている。バイロンにしても名前を聞いて思い浮かぶのはディオダディ荘のエピソードとギリシャ独立戦争での死だ。そしてメアリー・シェリーと聞いて浮かぶのは『フランケンシュタイン』も去ることながら、彼女の父親のことである。メアリーの父、ウィリアム・ゴドウィンは近代最初のアナーキストと目される。メアリーだけでなく、ウィリアム・ゴドウィンがどう描かれるのかに強い関心があった。だから見に行く動機としては半年前に見た『マルクス・エンゲルス』に近い。かつてのSFファンから随分遠くに来ちまった気もするな。
  明日で五十歳になる。

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(422)『恐怖の報酬』の代償

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(常雇?)(422)『恐怖の報酬』の代償
加藤匡通
十二月×日(月)
  朝、いつも乗っているみらい平駅五時四十四分発に間に合わなそうと思うと車を使ってしまう。もちろんガソリン代も駐車場代も無駄だし、歩いた方がいいに決まってるのだが、歩いて駅まで行くより車を使ってしまう方が多い。
  今朝もそうだった。フロントガラスに霜が降りている車のドアを開け、ハンドルの根本に鍵を差し込みエンジンをかけようと、鍵が入らない。何だこれ?鍵穴にふたがされてるみたいだ。ハンドルもロックされている。時間がないわけだから慌てていて、ゆっくり冷静な対処が出来ない、と言うか多分少し車に詳しければ何でもない、トラブルですらないようなことなのだろう。しかし僕は車に関心の全くない、鍵を回すと動き出す道具としか思っていない人間である。「えー、マジかぁ。仲良くしようよ〜」とか言っても相手はナイト2000でも超ロボット生命体でもないので答が帰ってくるはずもなく、少しいじって諦めた。どの道四十四分にはもう間に合わない。電車を一本遅らせて駅まで歩こう。座れないかもしれないが、駅前でゆっくりする時間がなくなるだけで時間に余裕はまだある。そうは思うものの、朝から嫌な気分だ。この車、車検そろそろだけどどうするかな。気が重い。
  帰りに新宿で映画を見た。『恐怖の報酬』ウィリアム・フリードキンのリメイク版、油田火災を吹き消すために山の中、古くなった不安定なダイナマイトをトラックで運ぶと言うあれだ。昔、熱烈な映画ファンと言う訳でもない友人から「あれは現代の状況を象徴しているんだよな?」と尋ねられ、未見だったのであわててレンタルビデオ屋に行った覚えがある。オリジナルのアンリ・ジョルジュ・クルーゾーによる『恐怖の報酬』は中学の時にNHK教育の『世界名画劇場』で見てはいたが、その時には見たと言う記憶しかない。借りたのは日本公開版ではなくオリジナル全長版で、傑作だった。友人とは疎遠になってしまったが、この映画を教えてくれたことは今でも感謝している(陶山、元気か。)。クルーゾーのオリジナルは後に映画館で見た。食いつめた日雇労働者の、こちらも充分に殺伐とした映画だが、リメイク版を見るとオリジナルが牧歌的に見えてくる。今回リメイク版をようやく劇場で見た。自宅の小さなモニターで見てイマイチだった映画を映画館で見て傑作だったと愕然とした経験が何度もあるので、僕の中で評価が確定するのは映画館で見てからなのだ。やはり傑作だった。どうにもならずに逃げた先もやっぱり地獄で、地獄から逃げようともがいても最早逃げ場などない。僕は映画館で希望ではなく絶望を味わいたいのだろう。
 帰り道、飯喰ってさあ帰ろうと改札前で回数券をまさぐり青冷めた。小銭入れごと回数券がない。飯屋?いや、暑いからと上着を脱いだ映画館だろう。歩いてる最中に無意識に触って落としていたらどうにもならない。映画館に電話をすると、落と物はなかったが、上映中の回が終わったらまた捜してみると言われた。出てきてほしいなあ。つくばエクスプレスは高いので回数券は一万円近いはず、朝からこんなのばっかりだ。