茨城不安定労働組合

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賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(350)『続・鎌田浩宮 福島・相馬に行く 俊之が結婚』

賃金奴隷な日々 日雇派遣日記(350)『続・鎌田浩宮 福島・相馬に行く 俊之が結婚』
加藤匡通
八月××日(土)
  一日台車を押して荷物を動かして過ごした。だらだらとしていてやる気も出ない。
 昨日今日と同じ現場なんだが、一昨日派遣会社から最初に言われたのは別の現場だった。千葉の湾岸の現場で前に入ったことがある。作業内容には特段不満はなかったが、昨日も今日も用事があって、なおかつ事務所に日給を受け取りに行きたくて千葉からの移動では時間がかかり過ぎる。「(千葉で)どうですか?」と聞かれて「あんまり嬉しくないなあ。」と答えたら都心部の現場になった。しかし仕事はつまらない。僕は言われた現場には大抵入っている。今回のように自分の都合と合わないような場合の他はよっぽどに嫌な現場でない限り断ることはない。今の派遣会社に来て十数年になるけど、よっぽどに嫌だと断った記憶は・・・一回くらいあったかな?人によっては現場を選びまくる人もいるようだが、そういう人は端境期には当然干される。
 現場は『シン・ゴジラ』の進行地点に当たるが、窓の外にそれらしき影はない。まあ、当たり前だ。今回のゴジラはエメリッヒ版のイグアナどころの騒ぎではなく恐竜どころか爬虫類ですらなく、もとは下手すりゃ無脊椎動物なんじゃないかとすら思うんだが、問題はそこではない。正直言って大変楽しく見た。もう二回見てるが、多分もう一回見る。それだけ面白いと思っているのにそこに表出されているイデオロギーには全く賛成出来ない。ここまで映画としての評価とその政治性への評価が食い違うどころか正反対なのは初めてだ。今回の『シン・ゴジラ』は徹底して国家がゴジラと対峙する映画だがこの場合の国家とは政治家と官僚である。政治家と官僚がその能力を出し切って団結し、国難を乗り越える物語である。当然にもそれはナショナリズムを強く喚起するし、「がんばろう日本」とも共鳴する。その意味でも、3・11以降の時代を強く反映しているのは間違いない。ゴジラ映画がここまで同時代性を帯びたのは久し振りだ。だがそれは全く喜ばしくない方向である。法解釈で動けない官僚とかゴジラがどっちを向いて倒れたとか、そんなことが問題ではないのだ。
  時代をとらえる感覚とそれを作品に出来る庵野の能力は大したものだとあらためて感嘆するものの、ことここに至っては庵野を育てたおたく文化、特撮・アニメの持つ問題にも気づかざる得ない。特殊な能力を持ち特権的な活躍をするヒーロー・ヒロインと言う物語群の構造は民衆を見えなくもする。『シン・ゴジラ』はその構造を現代的に現実的にしているだけではないのか?東京を火の海にしたとか政権中枢を壊滅させたとかで喜んでいる場合ではないのだ。いや、まさかゴジラナショナリズムを煽り立てる映画になろうとは、なんてことだ。
  仕事が終わってから、古くからの友人が撮った映画を見に行った。『続・鎌田浩宮 福島・相馬に行く 俊之が結婚』と言う映画なんだが、まあ誰も知らないよな。今のところ上映は今日のアップリンクのみ、その後の予定は立ってない。学生時代の友人がたまたま福島の相馬に住んでいて、むかしから遊びに行っていたので震災・原発事故後もカメラを持って遊びに行っている、そんな映画だから限りなくプライベートフィルムに近い。だが、そんな個人的な関係にも原発事故は現在進行形で色濃く影を落とす。前作『鎌田浩宮 福島・相馬に行く』は全国十一ヵ所で上映され、現在DVDが発売中。
   僕の友人と言うのは監督、主演を務める鎌田浩宮で(ん?主演は杉本俊之か?)、CDを出してる音楽家でもある。あ、運動とは全く関係がないので公安チェックしても無駄だから。前作は撮影が別にいたので本人映りまくりでうるさかったのだが今回は撮影も本人、当然ほとんど画面には登場せず落ち着いて見ていられる。映画としての面白さや完成度は圧倒的に『シン・ゴジラ』で、これは比較にならない。だが、3・11以降の状況に対する視座の確かさなら鎌田の映画の方がはるかに信頼できる。それにここに映し出されているのは官僚や政治家などとは無縁なアンダークラスの現在の姿であって、実に悩ましい。